ぶらり兵庫春物語

大阪の歴史的シンボルとして、また、人々の憩の場として
中心地にそびえたつ大阪城。
かつて、天下人の城でもあった大阪城周辺に残る
秀吉の面影を訪ねてみました。

 太閤・秀吉とともに、大阪の人々に親しまれ続けている大阪城。安土・桃山時代に、15年余の歳月をかけて築城された大阪城は天下人の本拠地ということもあり、城下町を含めて大変な繁栄をみたそうです。大阪城周辺の歴史を訪ねると、秀吉の時代に限らず、さまざまな史実や当時の文化の跡を知ることができます。今回は、とくに、大阪城より東の京橋〜城東区周辺を訪ねてみました。

 城東区と秀吉にも、実は深いつながりがあります。
 鴫野東3丁目にある城東小学校前では、「鴫野・今福古戦場碑」を見ることができます。秀吉の忘れ形見ほか豊臣勢の大坂方と徳川家康率いる徳川方が戦った大坂冬の陣、鴫野は最大の激戦地だったそうです。双方が銃撃戦で臨み、合間に堤防の上で接近戦を、という戦いが続き、どちらも一進一退で雌雄がつかなかったとか。数では優勢だった徳川方も、予想外の苦戦に一旦和睦の道を選択。その後、大坂夏の陣でついに大坂方を倒すことになりました。今は、住宅地であり、子どもたちの元気な声が響く小学校のあるこの地で、かつて歴史が動いたのです。
 秀吉が大阪城を築城する際、安全祈願をしたとされるのが、京阪野江駅の東にある野江水神社です。
昔、この付近に三好宗三(政長)が榎並城(えなみじょう)を築城する際、たびたび水害を被っていたため、水火除難の守護神として場内に社を建立し、祀ったそうです。秀吉が築城の際は、社殿の修築などをして国家泰平を祈願したと言われています。
 現在、先述の榎並城の面影を見ることはできませんが、「榎並城跡伝承地」および「榎並猿楽(えなみさるがく)発祥の地」と刻まれた石碑は、野江4丁目の榎並小学校東門前で見ることができます。

京阪天満橋駅より東にある大阪橋
から見た大阪城の天守閣
 
城東小学校にある「鴫野・今福古戦場碑」。
西軍(大坂方)と東軍(徳川方)の間で、およそ3日間の激しい銃撃戦がこの地一帯で繰り広げられたと言われています。
豊臣秀吉が大阪城築城の際、祈願したという野江水神社。
水の神様が祀られているため、銭湯や水道工事など水にまつわる仕事に携わる人の参拝が多いとか。
7月中旬には夏祭が催されます。
榎並小学校東門前の「榎並城跡伝承地」「榎並猿楽発祥の地」の石碑。
榎並城は天守閣を持たない小さな城だったとか。榎並猿楽は、鎌倉時代より人気を誇りましたが、室町時代には衰退したそうです。

 京橋といえば、JR環状線や京阪電車などが通る大阪有数の繁華街ですが、そもそもの「京橋」とは大阪城を起点として京都・伏見へと続く京街道の出発点となる橋のことでした。今も、JR東西線の「大阪城北詰駅」から、大阪城を左に見ながら約7〜8分ほど行ったところに「京橋」は架かっています。寝屋川と淀川が合流する手前です。昭和56年(1981年)に一新された現在の橋の上にある照明は、秀吉ゆかりの千成びょうたんを模した形になっているそうです。
 大阪と伏見に築城した秀吉は、1594年〜1596年にかけ、この間を結ぶ道の整備を行いました。具体的には大阪と京都を結ぶ陸路を作るため、淀川左岸の堤防を改修し、堤防上に道を開いたそうです。
 これは文禄堤と呼ばれていました。これをもとに造られたのが京街道です。江戸時代に大坂が幕府直轄地となり、参勤交代の大名などが往来する幕府の公用道路として京街道は東海道の一部になったそうです。
 秀吉が開いた陸路は、当初、大阪城・京橋口から片町1丁目、鯰江川を渡ってさかのぼり、野江、内代、森小路、今市から北河内を経て、京の羅生門に達していたそうです。

 京街道や東海道のほかに、城東区では「旧野崎街道の跡」の碑も見ることができます。野崎街道とは、
大東市にある曹洞宗福聚山慈眼寺(そうどうしゅうふうじゅさんじげんじ)へ参詣するルートのことで、江戸時代から明治の末頃まで、行楽として人気がありました。
 今福を通るルートは、「野崎参りは屋形舟で参ろ…」というフレーズが有名な昭和初期の東海林太郎のヒット曲「野崎小唄」という歌にもあるように鯰江川や寝屋川をさかのぼり、住道から徒歩にするか、寝屋川の堤を歩くかだったそうです。舟客と徒歩の人が言い合いをし、勝つと縁起がいいとされるユーモラスな風習もあったとか。
 今福交番前の交差点付近からは、以前、古代の丸木舟が発掘されたことがあったそうです。ここから東南方向へ向かうと、今福の古い街並みを見ることができます。都心に隣接した場所にあり、活気と落ち着きが同居した城東区界隈は、昔も、今も、人々の豊かな暮らしを育んでいます。

  城東小学校東側にある「八剣神社」。
14世紀、村民の夢に現れた老翁のお告げにより建立されたとされています。