大阪の人々がはじめて西洋文化に触れた街川口・旧居留地を歩く

【特集】
文明開化の時代、世界に開かれた
国際都市だった西区川口界隈

西区川口・安治川周辺 新しい時代が始まった場所

 今回は地下鉄中央線、千日前 線・阿波座駅から本町通を西へ、木津川橋を渡った一帯、「大阪の文明開化の地」といわれる川口界隈を訪ねました。
 長い鎖国時代を終え、諸外国へ門戸を開くことになった1868年、崩壊した徳川幕府に代わり、明治新政府によって安治川の河口にある川口に港が開かれました。

1.松島公園/
野球場もある広々とした公園。都会のオアシス的な憩いの空間
 大阪開港にあわせて、外国人居留地が設けられ、競売に掛けられました。購入したのはイギリス、フランス、ドイツ、オランダ、アメリカ、ベルギーなどの商人達で、100坪あたりの平均価格が354両と、神戸居留地の265両よりはるかに高かったにもかかわらず、一日で完売する人気であったといわれています。
 完全な自治体制であった居留地は下水道や分離した歩道・車道を設置するなど、計画的な街づくりが進められ、テラスを備えたレンガ造りの建物や通りに灯るガス燈など文明開化を目の当たりにできる街ができあがったのです。
2.茨住吉神社
ナインモール九条すぐそば。
 居留地には、牛肉・牛乳・パンなどの食料品から靴、洋服、帽子など、大阪の人々がそれまで見たこともない西洋文化が一挙に流れこみ、大いに驚かせたようです。大阪に異国ブームが巻き起こり、居留地は観光や買物に訪れる人々で大賑わいだったとか。
3.川口アパートメント/
アールデコ風のレトロなアパート。耐久性に優れ、現在も現役で活躍。
 しかし、川口に開かれた港は湾口から5qも上流の河口港で大型船舶が接岸できなかったこともあり、外国人居住者たちは、次々に神戸の居留地へと移り住んで行きました。その後、移転してきた宣教師たちによって、教会や女学校、病院などの施設の建設が進められました。今も川口界隈を歩くと川口基督教会をはじめ、レトロな建物が当時の面影を偲ばせてくれます。神戸の旧居留地とはまた違った趣きのあるスポットです。
 競争率が高かった居留地の土地を購入できなかった外国人たちは、周辺に住むようになり、そこは雑居地と呼ばれていました。住民には中国人が多く、明治中期には400人を、大正末期か
4.竹林寺/
竜宮城を思わせる、門のカラフルな色彩が美しい。
ら昭和初期には3000人を超えています。彼らは理髪店や洋服店などを営み、当時の大阪の人々が初めて口にしたであろう中華料理の店なども軒を並べていたそうです。なかでも、理髪店は耳掃除などもしてくれる丁寧な仕事ぶりが人気となり、遠方からも客が訪れていたようです。
 川口は大阪開港の地であっただけでなく、大阪電信発祥の地でもありました。現在の大阪税関富島出張所にそれを伝える旧跡があります。日本初の電信線は、1869年に東京―横浜間がすでに開通。
5.川口居留地跡(碑)/
当時の街の様子についての説明も。
川口―神戸・大手町間40qの電信が開通したのは、その翌年のことでした。開通日には、多くの群集が市内はもとより地方からも集まり、初電信を固唾を飲んで見守ったそうです。当時の人々は、針金に手紙が伝ってくるものと思っていたらしく、じっと電線を仰いでいたとか。
 外国の新しい文化や技術を持ち前の明るさと好奇心で大いに楽しんだ関西人気質の原点を川口の歴史から、かい間見ることができます。

1日約6000人が利用する河底のトンネル「安治川隧道」


現在も古き良き時代を偲ばせる川口の港
 西区安治川2丁目にある安治川トンネルをご存知でしょうか。設置されたエレベーターに人や自転車が乗ると、約17m下まで降下。到着した場所は、なんと河底に造られたトンネルなのです。
 1897年には、九条新道の西端に「安治川の源兵衛渡し」と呼ばれる渡しがあり、両岸の人々に重宝されていたそうです。昭和に入り、市内の交通量増加にともない、計画されたのが安治川隧道でした。当時は車両が通行できるトンネルもありましたが、1977年に閉鎖されています。現在も九条と西九条を行き来する市民の足として活躍する安治川トンネルは全長約80m。利用は無料なので、めずらしい河底トンネルを一度体験してみるのもおもしろそうです。
 文明開化の時代から、新しい文化を受け入れ続けてきた西区界隈。当時の名残りを探しに散策してみてはいかがでしょうか。