大阪の人々の暮らしを支えてきた街日本橋・黒門市場を歩く

【特集】
戦前、そして戦後
激動の時代にも人情と文化が育まれた日本橋界隈

大阪の「へそ」日本橋は庶民の暮らしと文化を支えた街
 
日本橋の街並
文楽座

 

大阪の発展に重要な位置をしめていたのが市内を縦横無尽に流れる川に架かる数々の橋でした。なかでも大阪の“へそ”に位置する日本橋は、交通の要所として重視された橋であると同時に大阪の人々の誇りでもあったようです。今の日本橋という界隈は、かつては長町と呼ばれており、1792年に改名されました。

 1903年に天王寺で「第5回内国勧業博覧会」の開催が決まると、日本橋一帯も区画整理されることになり、日本橋筋の道路の幅員がこの時、5mにまで広げられました。博覧会開催初日には、午後にもなると、入場を待つ行列が日本橋筋まで続いたというエピソードからもその盛況ぶりはうかがえます。

 戦前の日本橋は現在のような電化製品の町ではなく、古書街でした。当時は、東京の神田と肩を並べるほど有名で、作家の織田作之助や折口信夫などの出入りもあったようです。戦後の日本橋の復興は、戸板2枚ほどの店舗から始まりました。かつての商店主たちが戸板の上に商品を並べて商売したそうです。その後、終戦から2年を経た1947年になると、ラジオブームが到来し、日本橋がラジオ部品の卸しを担うように。やがて、ラジオ全盛期から第一次家電ブームを迎え、日本橋が部品卸しから小売業へと転換したのもこの時期でした。

 日本橋から道頓堀にかけては芝居の街でもありました。1684年に竹本義太夫が近松の「曾根崎心中」などのヒットをとばし、人形浄瑠璃の人気を確立しました。やがて幕末から明治にかけて「文楽座」が人形浄瑠璃の代表的な劇場となり、この頃から人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれるようになったそうです。国立文楽劇場のほか、松竹座、浪花座、中座、角座、朝日座は道頓堀五座と呼ばれ、なにわの文化を支えてきました。それら劇場の跡地が現在では、次々とフードテーマパークに姿を替え、新しい大阪の名物スポットとなり、多くの人で賑わっています。2003年9月には旧角座に「道頓堀ラーメン大食堂」、2004年4月には旧中座に「セラヴィスクエア中座」、7月には旧浪花座に「道頓堀極楽商店街」などが続々オープン。芝居文化から華開いた「くいだおれ」の街・大阪は新たな文化を創りだしているようです。

食い道楽の町・大阪を象徴する黒門市場

黒門市場

 平日でも1日平均1万8千人、年末ともなると1日15万人が足を運ぶという黒門市場。くいだおれの街・大阪の台所として、全国にその名をしらしめています。昨年から今年に放映されたNHK連続テレビ小説「ほんまもん」の舞台にもなりました。

 黒門市場の起源は江戸時代にまでさかのぼることができます。当時の書物「摂陽奇観」にある「文政5年(1822年)〜6年の頃より毎朝魚商人、此の辺に集まりて魚の売買をなし、午後には諸方のなぐれ魚を持ち寄りて日本橋にて売り捌くこと南陽の繁昌なるや」という記述が最古のものだそうです。

 1902年には、大阪府より公認市場として認可されました。当時の名称は圓明寺市場。堺筋沿い、日本橋2丁目にあった圓明寺がその名の由来でしたが明治の末期、大火に見舞われ、焼失。その後、この圓明寺にあった黒い山門にちなみ、黒門市場に名を替えていったそうです。

 第二次大戦中も配給制度のもとで市場は営業を続け、開店前の行列が天満橋の旧松坂屋あたりまで続いたこともあったほど、人々の生活の支えになっていたようです。1945年の度重なる空襲で焦土と化した大阪でしたが、戦後の市場の復興は早かったそうです。かつての店主たちが100戸のバラックを建設し、1946年11月には早くも市場が再開されました。

 1965年頃には、夜間営業が全盛期に。昼の営業が終了すると同時に、夜間営業の店が開店。昼も夜も、多くの人で賑わっていました。

 創業100年を超える漬物店や天然のトラフグが手に入る鮮魚店、本まぐろの切り落としが安く手に入る店まで揃う黒門市場。例年、12月には歳末大売出しが開催されるので、のぞいてみては。思わぬ目玉商品が手に入るかもしれません。

※日程など詳細は黒門市場ホームページにて(http://www.kuromon.com