ぶらり大阪冬物語

哀しい歌が今に伝える枚方の美しい自然

 大阪と京都の中間にある枚方市は、大阪府下4番目の人口約40万人が暮らすベッドタウンで、京阪電鉄とJR学研都市線が通り、都心へのアクセスの良さを誇ります。また、市内に6大学を持つ学園都市でもあります。   平安時代に遡ると、枚方周辺は交野ケ原と呼ばれ、京都の都への利便性から皇族や貴族が鷹狩りに訪れる地でした。御殿山では、惟喬(これたか)親王の別荘跡である渚の院跡を見ることができます。惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で皇太子になるはずでしたが、母親が当時、勢いが盛んだった藤原一門ではなかったので、皇位継承の地位に就くことができず今では "悲運の皇子" とも呼ばれています。 惟喬親王と同じく、妻が藤原一門ではなかったため、不遇の身であった在原業平がこの地を訪れた際、渚の院に咲き乱れていた千本桜を見て詠んだといわれるのが

「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」

という有名な一句です。古えの昔、枚方の自然が多くの人々の心を癒していたのですね。京阪「御殿山」駅から東へいくと御殿山神社があります。江戸時代に渚の院跡に設けられた、西粟倉神社が、明治2年に御殿山に社殿を造営、その後、現在の地に遷宮し、御殿山神社と改称したそうです。ここからの眺望は素晴しく、春は見事な桜で楽しませてくれます。神社には「御殿山美術センター」や公園が隣接し、市民の文化活動の拠点や憩いの場となっています

枚方上空から御殿山・牧野方面をのぞむ
惟喬親王の別荘だった渚の院跡には現在、石碑と梵鐘があります。梵鐘は寛政8年(1796年)の鋳造で河内惚官鋳物師枚方田中家の作だそうです(枚方市渚元町9-23)。

 江戸時代、大坂夏の陣の後、京都〜大阪を結ぶ京街道には4つの宿が設けられ、そのひとつが枚方宿でした。淀川を上り下りする三十石船の寄港地でもあったため、枚方は京都・大阪間の交通の要衝となり、多くの商店などが軒を連ねていました。「ここはどこぞと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦。鍵屋浦にいかりは要らぬ、三味や太鼓で船とめる」と淀川三十石船歌にも歌われるほど賑わいを見せていたそうです。三十石船が枚方の鍵屋浦に停泊すると、「飯くらわんか!」のかけ声とともにご飯やごぼう汁、餅などの食べ物を売りにくる船があったそうです。これが有名な「くらわんか舟」で、勘定の方法はなんと、現代の回転寿司方式。つまり、食べたお皿の数で計算したとか。勘定をごまかそうとした客がこっそり川に落した皿が今でも淀川の川底から出てくるそうです。
天正年間(1573?92年)の創業と伝えられる船宿「鍵屋」は平成10年(1998年)まで料理旅館として営業。現在は建物が枚方市に寄贈され、「市立枚方宿鍵屋資料館」として親しまれています。館内では、くらわんか舟の資料や枚方の歴史を見ることができます。

「水面廻廊」では再現された「くらわんか舟」を見ることができます。「東海道中膝栗毛」にも記述があるほど、売り手の乱暴な物の言い方の印象は強烈だったようです。
淀川沿いの京街道に面した「市立枚方宿鍵屋資料館」。江戸時代の町家の構造を今に伝える、貴重な歴史的建造物でもあります。
枚方の“七夕伝説”発祥の地、天野川にかかる「かささぎ橋」。鎌倉時代に詠まれた「これやこの七夕つめの恋わたるあまの河原のかささぎのはし」という歌が残っています。

 枚方市では、「豊かな緑とうるおいのあるまちづくり」を掲げ、市内の整備を進めています。中心市街地にある歴史にゆかりの施設や枚方ならではの自然を守り、まちの魅力と美観の向上を目指すというものだそうです。

歴史の足跡や古人に愛された自然を守りつつ、新しい文化も吸収し、発展を続ける枚方。都心にほど近い場所にありながら、住む人、訪れる人がほっとできる安らぎのある地域といえそうです。

●歴史街道モデル事業(中段写真)
 枚方を7つのゾーンに分け、それぞれのイメージに基づいた町づくりをするものです。たとえば、「水面廻廊(みなもかいろう)」(所在地:桜町8)や「市立枚方宿鍵屋資料館」(所在地:堤町10-27)、「かささぎ橋」(所在地:枚方市駅より北へ徒歩5分)などの整備が進んでいます。

●枚方八景
 昭和59年(1984年)に市制35周年を記念して市民から候補地を募集し、制定されました。秋のマンジュシャゲ、冬の鴨の群れなど四季を通じて豊かな自然を見せてくれる「淀川の四季」や片楚神社北側、牧野公園の「牧野の桜」、府立山田池公園の「山田池の月」、標高約300mの「国見山の展望」ほか、「樟葉宮跡の杜」「百済寺跡の松風」「万年寺山の緑陰」「香里団地の並木」など8カ所の名勝が定め