ぶらり大阪春物語

船場センタービル
  1〜10号館までには約1000件のショップや事務所が入居する船場センタービル。
  小売店は、個性あふれるラインナップだ。

大見出し
 
 
 
大阪市は1925年、市域拡張により当時の東京市を抜き、日本では1位、世界では第6位のマンモス都市であったそうです。そのころ大阪市の中心地であったのが船場で、繊維問屋や商社、銀行、証券会社が並んでいたそうです。
  船場の基礎は、豊臣秀吉が大阪城築城時に、城下町の整備を進めたことで開けました。平野や堺、京都、伏見から商人や業者などが多く移住したことで、商店や両替商、船宿が次々に誕生し、政治、経済、流通の中心地になっていったそうです。
   江戸時代の船場は、流通・金融などを担い、「天下の台所」として日本商業の中心になったと言われています。
   船場・島之内を中心に大阪の道路が東西に道幅が広く作られているのは、大阪城を起点にしていることが一因。また、海が西に位置し、風向きなどが東西に開けていることなども関係しているからだそうです。そのため、かつての船場では、東西を走る「通り」に老舗が軒を並べていたそうです。
   近年では南船場一帯に、ファッション・ブランドのセレクトショップやカフェが集まり、若者たちの人気スポットとなっています。
堺筋界隈 地下鉄堺筋線が真下に走る堺筋は、御堂筋が拡張される昭和初期まで大阪のメインストリートだった。
道路沿いに建つ、かつては銀行だった威風堂々とした石造り建物
(現レストラン)が商都だった当時の華やかさを今に伝えます。

 

市民の憩いの場として再生する大阪国際空港
 

  船場から南西に行くと、大阪随一の繁華街に位置する心斎橋筋に出ます。江戸時代の文献にも、その地名が見られることから、心斎橋筋のルーツは、江戸時代初期にまで遡れるそうです。
  当時、道頓堀に芝居を見に来る人や、今宮戎への参拝客が通る道筋であったことから、店が並び、にぎわいが生まれたと言われています。

   心斎橋という地名は、1622年ころに架けられた橋に由来します。橋の場所は、現在で言うと御堂筋と長堀通が交わる「新橋」交差点よりひとつ東の信号の横断歩道部分です。

  江戸時代、大阪の物流を盛んにした長堀川開削事業に係わった一人、美濃屋の岡田心斎(おかだしんさい)が中心となり架けた橋の名が、心斎橋だったそうです。そのときの橋は木製で、長さ約35m、幅約4mだったと伝えられています。
  当時、大阪の橋は「町橋」と言い、町人が費用のほとんどを負担し架橋、管理していたそうです。

   明治時代になると、心斎橋はドイツから輸入された鉄製弓形トラス橋に架け換えられました。橋のデザインが橋脚なしに川をまたぐ様式で、その頃には珍しい橋だったため、心斎橋は一種の観光名所として話題となっていたようです。

心斎橋筋商店街 長堀通より北へ3辻目の順慶町通りまでは「心斎橋筋北商店街」、
南〜戎橋北詰までは、「心斎橋筋商店街」・大阪有数のショッピングゾーン。
心斎橋 心斎橋の当時の面影は、現在も長堀通に残る。
長堀通が埋め立てられた後は、一時、陸橋として存在していた。
 

  明治時代になると、心斎橋はドイツから輸入された鉄製弓形トラス橋に架け換えられました。橋のデザインが橋脚なしに川をまたぐ様式で、その頃には珍しい橋だったため、心斎橋は一種の観光名所として話題となっていたようです。

   明治も終わり頃、心斎橋は西洋風の石造2連アーチ橋へ姿を変えます。片側に4基ずつのガス灯を持つ、趣きのある心斎橋は人気があり、絵葉書などにもなっていたようです。

  1964年、長堀川埋め立てにより、心斎橋は陸橋となりました。そして現在では、長堀通を渡る心斎橋筋の横断歩道に心斎橋のガス灯や欄干の一部が設置され、かつての面影をしのばせています。

 
歴史と現在が交差するJR伊丹駅周辺の街づくり
 
  心斎橋を中心に、自然発生的に周辺に街が生まれ、大阪を代表する心斎橋筋商店街などが生まれたと言われています。現在の大丸百貨店は江戸時代、そごう百貨店は明治時代に商いを始めたそうです。明治時代には、アメリカ式のドラッグストアや舶来の商品を売る店なども現れ、大正から昭和にかけては、*モボ、モガと呼ばれた人々にも人気のスポットとなっていました。
   つねに流行の先端を走っていた繁華街・心斎橋筋は、近代美術発信の地でもありました。洋画家の小出楢重(こいでならしげ)や北野恒富(きたのつねとみ)らは、頻繁に心斎橋筋を訪れていたそうです。1924年(大正13年)歯痛薬「今治水(こんじすい)」で有名な丹平製薬が心斎橋筋2丁目に建てた商業ビル「丹平ハウス」には、存在当時、前衛的な作品を続々と発表する丹平写真倶楽部や赤松麟作(あかまつりんさく)の洋画研究所などが開設され、大阪の文化芸術をリードしていたようです。

  船場から長堀通を越え、心斎橋までを歩いてみると、今も昔も変わらぬ人々の活気や、ここから発信される新しい感性が心地よい刺激となってパワーが充電できる気がします。

錦絵レリーフ鉄製の心斎橋を描いた錦絵のレリーフほか、心斎橋の変をクリスタ長堀の展示で見ることができる。
 
【モボ・モガ】 モダンボーイ、モダンガールの略。評論家として活躍した新居格(にいいたる)によって作られた言葉だといわれている。1920年代半ばから広く知られ始めた。モボは山高帽子やロイド眼鏡にラッパズボン、モガは短めの髪にスカート、帽子などを特徴とした。