東大阪〜御厨を歩く
 
ぶらり大阪・春物語 No27

市指定文化財「植田家住宅一棟」
  ▲市指定文化財「植田家住宅一棟」。江戸時代、暗越奈良街道を通った大名
      などが休憩に立ち寄ったとされる屋敷。
      

チャップリンも訪れた神戸随一の繁華街だった
 
 大阪府の東に位置し、西には大阪、東には奈良県が隣接する東大阪市。大阪市・堺市に次ぐ府内3位の50万人超(平成20年1月時点)の人々が住む都市です。
  近鉄奈良線の沿線は、大阪・奈良への好アクセスを誇り、多くの大学が設置され、また住宅地が広がります。大阪「難波」駅から近鉄奈良線で約15分という好アクセスに位置する「八戸ノ里(やえのさと)」駅周辺なども、古くからの落ち着いた住宅地として人気があり、また、近隣には「大阪商業大学」「近畿大学本部キャンパス」「大阪樟蔭女子大学」などの大学があり、生き生きとした学生たちで賑わっています。

 「八戸ノ里」駅南側には、1996年に急逝した作家・司馬遼太郎の自宅敷地に建てられた記念館があり、全国から多くの人々が訪れれています。
楠木正成像
  ▲湊川公園にある楠木正成の像。周囲には季節の花などが
      配され、地域の人びとの大楠公への愛着がうかがえる。

東に生駒山麓を望み、豊かな自然に抱かれたこの地域には、今から数万年前の旧石器時代から人々の暮らしが営まれ、縄文・弥生・古墳時代には100以上の集落や古墳が作られたそうです。
  大化の改新以降、河内(かわち)平野の開発も進み、生駒山麓にあった入り江は、「草香江(くさかえ)」と呼ばれ、万葉集にも詠まれていたことから、その名は広く知られていたようです。
 「八戸ノ里」駅と西隣の「河内小阪(かわちこさか)」駅間の北側には現在も「御厨(みくりや)」という地名があります。「御厨」とは、もともと朝廷や皇室に献上する魚や野菜類などを用意する土地を意味していたそうです。平安時代に、この地域が皇室領「大江御厨(おおえみくりや)」として成立したと言われています。
 河内平野には、かつて南北に奔る大和川があり大雨の際などには幾度となく洪水をくり返していたそうです。そこで江戸時代、今米村(いまごめむら)の中甚兵衛(なかじんべえ)らが幕府へ請願し、川の付け替えが行われることになりました。その際、埋め立てられた旧川床や池、沼地は新田(しんでん)となったと言われます。なかでも大阪の豪商であった鴻池(こうのいけ)が開発した鴻池新田は最大の規模だったそうです。
 開墾された新田では、木綿などが栽培され、東大阪の「河内木綿」は当時の一流ブランドとして、その名を広く全国に知らしめ、地域の発展の礎を築きました。

歴史的な行事から音楽イベントまで市民が集う街
 
  江戸時代には、大阪市天王寺を起点とした奈良街道が整備され、旅人や貨物の交通路として利用されていました。とくに伊勢参りへ
の利用者で賑わいを見せ、人々はこの道を通り、奈良の寺社をめぐった後、伊勢を目指したようです。大和郡山藩が参勤交代の際に
も通ったと言われています。  
   コースは2通りあると言われ、ひとつは、大阪天王寺〜柏原〜斑鳩〜奈良に至るコース。もうひとつは、大阪高麗橋付近から河内平野を横ぎり生駒山の暗峠(くらがりとうげ)を越える暗越(くらがりごえ)コースだったそうです。
  暗越コースは、大阪と大和を最短距離で結ぶとされ、急勾配の難所があるにも関わらず、多くの人々が行き来しました。この道は、現在の国道308号線に相当するそうです。道ばたの道標や石仏などを見ると、かつての街道に思いをはせることができます。

  かの俳人・松尾芭蕉も伊賀上野から奈良街道を通り、大阪に向かったと言われています。芭蕉はその後、たどり着いた大阪で世を去ることになりました。
  東大阪市東豊浦町には「菊の香にくらがり登る節句かな」という句碑が芭蕉をしのんで置かれています。
湊川公園
  ▲暗越奈良街道沿いに建てられた行者堂。街道は
      大阪・玉造から奈良までの道程だったとされる。

  奈良街道の通り道であった御厨1丁目には、御厨天神社があります。境内には、樹齢が推定800年以上と言われる高さ20mの大クスノキがあり、1998年に市の天然記念物に指定されています。また、境内にある石灯籠は、奈良秋篠寺のものと一対をなすといわれ、奈良〜平安期にこの付近にあったとされる薬師寺の遺品と言われています。
  1889年には大阪鉄道(現・JR大和路線)、1895年には浪速鉄道(現・JR学研都市線)が開通。その後、難工事を経て、生駒トンネルが開通しました。昭和になり、当時の小阪町(現・御厨)に日本最初の町営分譲住宅の建設が計画されました。1935年より計画が進行、翌年50戸の小阪町営住宅が完成し、それに伴い新駅「八戸ノ里」駅の乗降も開始され、大阪のベッドタウンとして注目されたようです。  カリヨン時計塔
   ▲御厨天神社の境内にある大クスノキ。市の天然記念物
      に指定されている。
天神社
 ▲旧御厨村の中央に位置する御厨天神社。大名持命(おおなむちのみこと)・少彦名命
   (すくなひこのみこと)の二神が祀られている。奈良・秋篠寺の石燈籠と同形の八角形
   大形石燈籠がある。
 

文化・芸術の本拠地となる「アートなまち」づくりを
 
 江戸時代より木綿の産地として栄えた東大阪は、木綿工業を足がかりに、生産機械作りをはじめとする技術の町として発展していきました。2002年には、地元の企業が中心となり、職人たちの技術と夢を結集した「東大阪宇宙開発協同組合 SOHLA」を設立。「汎用小型衛星PETSAT」実現を目指したプロジェクトが進行中です。その研究開発において、今後、打ち上げに成功した衛星に「まいど1号」と命名する予定だそうです。

   代々、受け継がれてきた職人の技術を未来につなげる東大阪スピリットにあふれた東大阪、そして御厨界隈。この地で育つ子どもたち、この地で学ぶ学生たちにも、街の空気が心地よい刺激を与えてくれそうな、素敵な街でした。